2013年07月03日
22.「ドイツの首相」 政治家シリーズ3
現在のドイツの首相といえばアンゲラ・メルケル氏。前回の号で紹介したショイブレ氏の献金疑惑により2000年、彼の代わりにCDU(キリスト教民主同盟)党首となり、その時は一時政権がSPD(ドイツ社会民主党)に渡っていたので党首といっても首相とはならず、2005年にCDUが政権を奪回した際に首相になりました。それから現在にいたるまでCDUの党首そしてドイツの首相として活躍しています。
アンゲラ・メルケル氏の祖父は第一次世界大戦でドイツ軍に徴兵されたポーランド人で後にベルリンに住んだ方だそうです。生まれはハンブルク生まれ、ただし父がプロテスタントの教会の牧師だった関係で東ドイツに赴任することになり、生後すぐに東ドイツに移住しています。西ドイツ生まれだが,東ドイツ育ちだという珍しい略歴をもつことに。若い頃から政治には興味をもっていたようで、父親が聖職についていたことから加入義務はなかったものの、東ドイツの青年政治集団、自由ドイツ青年団に所属していました。またCDUというのは西側の最も保守的な党ですので、のちに首相になってから若かりしとはいえ東ドイツの政治組織に入っていたことをマスコミに揶揄されるのですが、彼女は堂々とした立ち回りで、「ええ、そのことについてはだれも訊ねなかったでしょ。」と返し手を打っていました。
学生のころは成績はよいもののあまり目立たない存在だったようです。1973年、名前から東ドイツの大学だとすぐにわかるのですが、当時カールマルクス・ライプツィッヒ大学(現ライプツィッヒ大学)へ本当はロシア語と物理の先生になりたくて就学しました。学問は結局、物理学をおさめることになり、モスクワとレニングラードにて勉強をしていたとき、最初の夫,となる人メルケル氏に出会います。そうなのです。彼女の今の姓名は最初の夫からのものです。夫と共に東ベルリンの科学アカデミーの物理化学センターに就職し、1982年には離婚を経験しています。また今の夫である科学者のヨアキム・ザウアーとは1998年に結婚していますが、実は1984年の時にすでに出会っている方です。首相になった今では彼女は多忙で、土曜日の夕食ぐらいしか彼と話ができないなどインタビューで語っていました。その後 彼女は1986年に博士号を取得することに。
そして1989年にベルリンの壁崩壊という歴史的事実を迎え、メルケルは先行きが見えなくなった科学アカデミーを辞め、政治家に転身します。1990年に行われた東ドイツでの選挙にてプロテスタント系の運動から発祥したDA(民主主義の出発)という党から立候補。当選。党の報道官に。このDA党は東ドイツのCDUと合流しそして、メルケル氏はドイツ統一前に西側のCDUの党大会に出席します。その時にヘルムト・コール氏と懇親を深めました。統一後は西側CDUに入党、連邦議会選挙で当選します。
CDUからの立候補で初当選ではあったものの、コール氏にとても気に入られたのでしょうか、女性・青少年担当大臣になります。またそれから1994年には環境•自然保護•原発安全担当大臣に。常にコール首相の恩恵を受けているメルケル氏。「コールのお嬢さん」というあだ名もつくことになりました。1998年の連邦議会選挙で大敗をしたCDUはコール政権の終焉をも意味し、このコラムの最初の方に書いたようなショイブレ氏がCDU党首となりますが献金疑惑のためトップがすりかわり、メルケル氏が党首になっていきます。CDUという政党は南ドイツにその勢力がありカトリック系保守派だと言われています。だと言われているといよりも、保守派と断言してしまった方がいいでしょう。その保守派の党が、プロテスタントの父親を持ち、また東ドイツので長年生活をし、そして離婚歴があり、その上女性を党首として選ぶのですから、なにかその当時はCUDの中にも改革の風がなければならない時期だったのでしょう。党首になるには州の首相になったり、議会団長になるような段階が普通です。彼女はそのような通常のキャリアコースからは外れていました。またメルケル氏はあれほど「コールのお嬢さん」と言われていたのにも関わらず、献金疑惑の際にはコール元首相を強烈に批判しました。もしかしたらこのことがより党首の地位へ引き上げた決定的なものだったかもしれません。それにしても彼女の実力は党首、そして2005年の首相就任以降皆の知る所となります。
彼女の首相就任は2013年の現在まで続いています。これは日本のめくるめく交代する首相とは違い、安定感のあるドイツ政治を国内外に知らしめるものです。かつてイギリスのサッチャー首相が「鉄の女」と呼ばれた事と、「コールのお嬢さん」とメルケル首相が呼ばれた事をかけて「鉄のお嬢さん」とも呼ばれますが、私はサッチャーさんと比べるのではなく、メルケル氏は科学者的な冷静なる目をもち国に真摯に仕えているお嬢さんの姿がみえます。もちろん政治的な駆け引きがあったとは思いますが、歴史の激動が彼女という存在を作り、また本人もそれに順々に応えている姿が見えます。
福島の事故を受けメルケル首相はドイツ国内に17基ある原発の廃止を2020年までに行う決定をしました。彼女はそれまでは原発維持派であり、前首相、シュレーダー氏が決めた2020年までに原発廃止をまだグリーンエネルギーに頼れる準備ができてないためとして原発の2040年まで稼働延長をする政策をとってきました。3月11日の福島原発事故を受け、14日には「日本で起こった事は、科学的にありえないとされたことが起こる事だ」として原発推進から脱原発へ首相自ら舵取りをしていきます。党の意見、国の体制を変えるのにはとても勇気と力がいることです。以前は科学者であったメルケル氏、検証に検証をかさね、国を正しい方向に導いていこうとするのはやはり科学者であるから出来る事なのでしょうか。ドイツには職業的政治家という言葉があります。政治家として生まれ、政治家として職をなし人生を送るということです。政治は手工業ではないのでマイスター制度はありませんが、職業的政治家が仕事に志すものはマイスター的心得というものがあるのではないでしょうか。職業婦人であり、職業的政治家であるメルケル氏。安定した政治はEUにも外交にも頼られています。
◆その他の「ドイツの政治家」シリーズを読む
≫「ドイツの母」フォン・デア・ライエン氏
≫「ドイツの右腕」ヴォルフガング・ショイブレ氏
◆このコラムの他の記事を読む
(1)ドイツ版、国民的アイドルは誰ですの?

≫その1
≫その2
≫その3
(2)「借金からの脱出」借金解決請負人-ペーター・ツヴィーガート

≫その1
≫その2
≫その3
(3)ドイツの人気テレビ番組「ほんとうにほんとうの人生」

≫その1
≫その2
≫その3
(4)売れないレストラン再建!独TV番組「レストランテスター」
≫その1
≫その2
≫その3
(5)深夜のトーク番組「ドミアン」 ハロー、こちらドミアン!

≫その1
≫その2
≫その3
(6)黒髪長身のスーパー教育アドバイザーが家庭訪問。「スーパーナニー」

≫その1
≫その2
≫その3
(7)政治家シリーズ

≫「ドイツの母」フォン・デア・ライエン氏

≫「ドイツの右腕」ヴォルフガング・ショイブレ氏

≫「ドイツの首相」アンゲラ・メルケル氏
◆このコラムの著者、河村恵理さんのお話を、コラム「インタビュー・ノート」にて掲載しています。
河村さんのドイツでのお仕事、現在に至るまでの経緯などが語られています。
・前編 http://interview.eshizuoka.jp/e953874.html
・中編 http://interview.eshizuoka.jp/e956661.html
・後編 http://interview.eshizuoka.jp/e960315.html
アンゲラ・メルケル氏の祖父は第一次世界大戦でドイツ軍に徴兵されたポーランド人で後にベルリンに住んだ方だそうです。生まれはハンブルク生まれ、ただし父がプロテスタントの教会の牧師だった関係で東ドイツに赴任することになり、生後すぐに東ドイツに移住しています。西ドイツ生まれだが,東ドイツ育ちだという珍しい略歴をもつことに。若い頃から政治には興味をもっていたようで、父親が聖職についていたことから加入義務はなかったものの、東ドイツの青年政治集団、自由ドイツ青年団に所属していました。またCDUというのは西側の最も保守的な党ですので、のちに首相になってから若かりしとはいえ東ドイツの政治組織に入っていたことをマスコミに揶揄されるのですが、彼女は堂々とした立ち回りで、「ええ、そのことについてはだれも訊ねなかったでしょ。」と返し手を打っていました。
学生のころは成績はよいもののあまり目立たない存在だったようです。1973年、名前から東ドイツの大学だとすぐにわかるのですが、当時カールマルクス・ライプツィッヒ大学(現ライプツィッヒ大学)へ本当はロシア語と物理の先生になりたくて就学しました。学問は結局、物理学をおさめることになり、モスクワとレニングラードにて勉強をしていたとき、最初の夫,となる人メルケル氏に出会います。そうなのです。彼女の今の姓名は最初の夫からのものです。夫と共に東ベルリンの科学アカデミーの物理化学センターに就職し、1982年には離婚を経験しています。また今の夫である科学者のヨアキム・ザウアーとは1998年に結婚していますが、実は1984年の時にすでに出会っている方です。首相になった今では彼女は多忙で、土曜日の夕食ぐらいしか彼と話ができないなどインタビューで語っていました。その後 彼女は1986年に博士号を取得することに。
そして1989年にベルリンの壁崩壊という歴史的事実を迎え、メルケルは先行きが見えなくなった科学アカデミーを辞め、政治家に転身します。1990年に行われた東ドイツでの選挙にてプロテスタント系の運動から発祥したDA(民主主義の出発)という党から立候補。当選。党の報道官に。このDA党は東ドイツのCDUと合流しそして、メルケル氏はドイツ統一前に西側のCDUの党大会に出席します。その時にヘルムト・コール氏と懇親を深めました。統一後は西側CDUに入党、連邦議会選挙で当選します。
CDUからの立候補で初当選ではあったものの、コール氏にとても気に入られたのでしょうか、女性・青少年担当大臣になります。またそれから1994年には環境•自然保護•原発安全担当大臣に。常にコール首相の恩恵を受けているメルケル氏。「コールのお嬢さん」というあだ名もつくことになりました。1998年の連邦議会選挙で大敗をしたCDUはコール政権の終焉をも意味し、このコラムの最初の方に書いたようなショイブレ氏がCDU党首となりますが献金疑惑のためトップがすりかわり、メルケル氏が党首になっていきます。CDUという政党は南ドイツにその勢力がありカトリック系保守派だと言われています。だと言われているといよりも、保守派と断言してしまった方がいいでしょう。その保守派の党が、プロテスタントの父親を持ち、また東ドイツので長年生活をし、そして離婚歴があり、その上女性を党首として選ぶのですから、なにかその当時はCUDの中にも改革の風がなければならない時期だったのでしょう。党首になるには州の首相になったり、議会団長になるような段階が普通です。彼女はそのような通常のキャリアコースからは外れていました。またメルケル氏はあれほど「コールのお嬢さん」と言われていたのにも関わらず、献金疑惑の際にはコール元首相を強烈に批判しました。もしかしたらこのことがより党首の地位へ引き上げた決定的なものだったかもしれません。それにしても彼女の実力は党首、そして2005年の首相就任以降皆の知る所となります。
彼女の首相就任は2013年の現在まで続いています。これは日本のめくるめく交代する首相とは違い、安定感のあるドイツ政治を国内外に知らしめるものです。かつてイギリスのサッチャー首相が「鉄の女」と呼ばれた事と、「コールのお嬢さん」とメルケル首相が呼ばれた事をかけて「鉄のお嬢さん」とも呼ばれますが、私はサッチャーさんと比べるのではなく、メルケル氏は科学者的な冷静なる目をもち国に真摯に仕えているお嬢さんの姿がみえます。もちろん政治的な駆け引きがあったとは思いますが、歴史の激動が彼女という存在を作り、また本人もそれに順々に応えている姿が見えます。
福島の事故を受けメルケル首相はドイツ国内に17基ある原発の廃止を2020年までに行う決定をしました。彼女はそれまでは原発維持派であり、前首相、シュレーダー氏が決めた2020年までに原発廃止をまだグリーンエネルギーに頼れる準備ができてないためとして原発の2040年まで稼働延長をする政策をとってきました。3月11日の福島原発事故を受け、14日には「日本で起こった事は、科学的にありえないとされたことが起こる事だ」として原発推進から脱原発へ首相自ら舵取りをしていきます。党の意見、国の体制を変えるのにはとても勇気と力がいることです。以前は科学者であったメルケル氏、検証に検証をかさね、国を正しい方向に導いていこうとするのはやはり科学者であるから出来る事なのでしょうか。ドイツには職業的政治家という言葉があります。政治家として生まれ、政治家として職をなし人生を送るということです。政治は手工業ではないのでマイスター制度はありませんが、職業的政治家が仕事に志すものはマイスター的心得というものがあるのではないでしょうか。職業婦人であり、職業的政治家であるメルケル氏。安定した政治はEUにも外交にも頼られています。
◆その他の「ドイツの政治家」シリーズを読む
≫「ドイツの母」フォン・デア・ライエン氏
≫「ドイツの右腕」ヴォルフガング・ショイブレ氏
◆このコラムの他の記事を読む
(1)ドイツ版、国民的アイドルは誰ですの?

≫その1
≫その2
≫その3
(2)「借金からの脱出」借金解決請負人-ペーター・ツヴィーガート

≫その1
≫その2
≫その3
(3)ドイツの人気テレビ番組「ほんとうにほんとうの人生」

≫その1
≫その2
≫その3
(4)売れないレストラン再建!独TV番組「レストランテスター」
≫その1
≫その2
≫その3
(5)深夜のトーク番組「ドミアン」 ハロー、こちらドミアン!

≫その1
≫その2
≫その3
(6)黒髪長身のスーパー教育アドバイザーが家庭訪問。「スーパーナニー」

≫その1
≫その2
≫その3
(7)政治家シリーズ

≫「ドイツの母」フォン・デア・ライエン氏

≫「ドイツの右腕」ヴォルフガング・ショイブレ氏

≫「ドイツの首相」アンゲラ・メルケル氏
◆このコラムの著者、河村恵理さんのお話を、コラム「インタビュー・ノート」にて掲載しています。
河村さんのドイツでのお仕事、現在に至るまでの経緯などが語られています。
・前編 http://interview.eshizuoka.jp/e953874.html
・中編 http://interview.eshizuoka.jp/e956661.html
・後編 http://interview.eshizuoka.jp/e960315.html
Posted by eしずおかコラム at 12:00
2013年06月19日
21.「ドイツの右腕」 政治家シリーズ2
ある方の依頼で、一緒にベルリンの税理士事務所を訪れた時のこと。さぞかし立派な事務所なんだろうと思いでかけて行くと、通されたのは住宅街にあるなんともこじんまりとした70平米ぐらいのお部屋でした。1階と、その1階を少し展望できるような中2階があり、1階には大きな机が6つぐらいおいてありました。
「ここは、送られて来る領収書をパートのおばちゃんたちが一生懸命データとして打ち込むところなんだよ」と、文房具が置かれ書類が綺麗に整頓された机をトントンと叩きながら税理士が言っていました。金曜の午後、パートのおばちゃんたちがいなくなった後の事務所で税の処理について一通りアドバイスを受けた私は、税理士がどうやって稼いでいるのかを聞いてみました。税理士の取り分は、依頼者の収入によって決まっているとのこと。それは法律で定められているので、自分で多くもらったり少なくしたりという操作はできないのだそうです。
彼は、税理士の事務所を開く前は税務署で働いていたといいます。どうして税理士になろうと思ったのか?と尋ねると、知り過ぎるぐらい税務署の観点が分かっているから、という答え。もしかしてそれは内部の情報を知っているのでなにか税務署の目を盗むような脱税のアドバイスをするため?という疑問をぶつけると、そうではなく、税務署へ提出する資料が正しければ正しいほど、細かければ細かいほど税務署の仕事を軽減することができ、さらに税務署に対して税理士事務所の信頼を得られるからというのが理由でした。
依頼者は、他の税理士事務所や会計事務所にはない細々とした資料(時にはそれは領収書のみではなくお店のサインがあったり、接待費であればお酒が入ってないかチェックしたりするという細かいもの)の提出を求められ、中にはそのハードルの高さに参ってしまう人もいるそうですが、このハードルを超えた者は逆に税務署からの干渉もないので、煩わされることなく静かに自分の事業に集中できるというわけ。厳しい要求はあるが正確性が売りだというこの税理士事務所。税理士自身は事務所近くのアパートに暮らし、たまに近所のアジア軽食店にいくのが楽しみなんだとか。なんだか庶民的なエピソードを聞いて、緊張して税理士のところに行ったのが肩すかしをされて帰って来たという思い出があります。彼は豪華な生活をひけらかすとか、社会的地位に満足感を得るということではなく、単に純粋に仕事に忠実ということなのかなと理解した思い出があります。
そんな「仕事に忠実」ということでいえば、政治家ではまずこの人を思い浮かべます。
ヴォルフガング・ショイブレ氏。現在彼は財務省大臣を務めており、なんといっても頭脳明晰、これからのユーロ再建に向けてメルケル首相に頼られる存在です。あとでお話しますが、車いすの生活を余儀なくされているショイブレ氏。身体的ハンディを抱えながら政治的活動に邁進する姿に打たれる方は少なくありません。演説がキャッチーで面白いために人気があるというより、彼の政治家としての手腕が国民の注目を集めているというところでしょうか。
彼が車いす生活になったのは1990年からでしたが、その前までは、ショイブレ氏は立ち座りができる普通の人でした。1942年生まれのショイブレ氏の父はやはり州議会の議員で、政治家の家に生まれたといってもよいものでした。フライブルク大学とハンブルク大学で法律と経済を学び、1966年には国家の法律試験に合格しています。また税の監査役ともなりその後、バーデン・ヴルテンブルク州の税管理局で、またフライブルクの税務署の税管理部門の主任として働く経験を持ちました。とにかく若い頃から法律と経済を学問上でも実践上でも修めた人です。
政治に関心を持ち始めたのはアビトゥアと呼ばれる大学入学試験を受ける年で、ドイツキリスト教民主同盟(CDU)の青年部に参加する事からはじまっています。1972年には連邦議会にCDUより初当選し、1984年には第二次ヘルムト・コール内閣に国務大臣兼首相府長官として入閣を果たしました。この在任時、1987年東ドイツの当時トップであった国家評議会議長、エーリッヒ・ホーネッカーの西ドイツ訪問の準備をすすめる役割も担いました。1989年第三次ヘルムトコール時代には内相に抜擢され、1989年にあった壁の崩壊後を踏まえ、1990年には東ドイツとの統一条約についての西ドイツ側の交渉人代表ともなりました。この条約は1990年8月に調印されることとなり、ドイツ外務省ではショイブレ氏のサインがされた条約書が閲覧できるようになっています。
1990年12月、選挙活動中に精神病の男に3発の銃撃を受けたうちの1発が脊髄に当たり、脊髄損傷、下半身麻痺に。以降、車いす生活となりました。1991年には首都をベルリンに遷都するかどうかという議論が連邦議会で行われましたが、ショイブレ氏の説得力あるスピーチが首都をボンからベルリンに移すことの決め手になったのです。
ボンにある連邦議会で、車いすに乗った彼はこう訴えます。「ドイツの統一と自由、デモクラシー、そして法治国家のシンボルはいずれの都市でもなく常にベルリンでありました。~中略~ドイツの統一は、ヨーロッパの統一の始まりでもあります。~中略~ドイツはヨーロッパの分断を超えようとし、我々ドイツ人は統一を勝ち取った。首都をベルリンに移すと決めることは、ヨーロッパの分断を超えようとする決定でもあります。皆様、本日私が申し上げたいのは、ボンにするかベルリンにするかということではなく、我々の未来、まず我々の内部自身に心の統一を見つけなければならないドイツの未来についてです。ヨーロッパの未来についてです。平和、自由、社会的な平等について考えなければならないという責任をもつのならば、ヨーロッパの統一を現実化させなければなりません。だからこそ私はあなたたちに訴えかけたいのです。私と共に、ベルリンに1票を」
▽動画を見ることができます
http://www.bpb.de/geschichte/deutsche-einheit/20-jahre-hauptstadtbeschluss/39744/rede-wolfgang-schaeuble
ショイブレ氏は1991年から2000年までCDU、 CSU遠方議会議員団長という位置につきました。この政治的位置はCDU党首でコール首相の後継者とみなされる位置でありました。実際、1997年にコール首相は自身の後継者としてショイブレ氏を指名したものの、コール首相は2002年まで党首をつづけることを宣言していました。ところが1998年の選挙でCDUが大敗、SPDに政権をとられることになりコール政権は退陣に追い込まれます。CDUの政権はないもののようやくショイブレ氏が党首に就任するものの、コール時代の武器商人からの献金疑惑が発覚。アンゲラ・メルケル氏にすぐに党首の座を譲というものでした。メルケル氏は2005年に政権をCDUに奪回して党首兼首相になり、ショイブレ氏を内相に、そして2009年より現在は財相に任命しています。
1991年の彼の演説にあったように、ヨーロッパはベルリンの壁の崩壊後、ドイツ統一のみならずヨーロッパ統一を目指してユーロを導入します。しかし2007年ごろからのヨーロッパの経済危機を受け、2009年、ショイブレ氏は「これはベルリンの壁崩壊のときのようなものである」とその歴史的な重要性を比べています。現在は、特にメルケル首相の片腕としてヨーロッパ圏内における経済政策、特に国の借金について解決を見出すべく責任ある任務を果たそうとしています。
献金疑惑とその自白により、彼が完全にクリーンであるというイメージはなくなりました。おそらく、政治家として首相や党首といったトップの座につくということはないでしょう。それにしてもドイツ統一のキーマンでもあり、ベルリン遷都の立役者、またこれからのヨーロッパ経済危機脱却からのリーダーシップをとるようになっていく人物でもあります。変化する、そして可変な現代史の中にいる一人、そんな意識が彼の中にあるのではないでしょうか。もちろんショイブレ氏の考えに意を唱える人もいます。しかし彼の政治家としての頭脳を求めているメルケル政権、そしてヨーロッパがあるのです。
◆その他の「ドイツの政治家」はこちら
≫「ドイツの母」フォン・デア・ライエン氏
≫「ドイツの首相」アンゲラ・メルケル氏
◆このコラムの他の記事を読む
(1)ドイツ版、国民的アイドルは誰ですの?

≫その1
≫その2
≫その3
(2)「借金からの脱出」借金解決請負人-ペーター・ツヴィーガート

≫その1
≫その2
≫その3
(3)ドイツの人気テレビ番組「ほんとうにほんとうの人生」

≫その1
≫その2
≫その3
(4)売れないレストラン再建!独TV番組「レストランテスター」
≫その1
≫その2
≫その3
(5)深夜のトーク番組「ドミアン」 ハロー、こちらドミアン!

≫その1
≫その2
≫その3
(6)黒髪長身のスーパー教育アドバイザーが家庭訪問。「スーパーナニー」

≫その1
≫その2
≫その3
(7)政治家シリーズ

≫「ドイツの母」フォン・デア・ライエン氏

≫「ドイツの右腕」ヴォルフガング・ショイブレ氏

≫「ドイツの首相」アンゲラ・メルケル氏
◆このコラムの著者、河村恵理さんのお話を、コラム「インタビュー・ノート」にて掲載しています。
河村さんのドイツでのお仕事、現在に至るまでの経緯などが語られています。
・前編 http://interview.eshizuoka.jp/e953874.html
・中編 http://interview.eshizuoka.jp/e956661.html
・後編 http://interview.eshizuoka.jp/e960315.html
「ここは、送られて来る領収書をパートのおばちゃんたちが一生懸命データとして打ち込むところなんだよ」と、文房具が置かれ書類が綺麗に整頓された机をトントンと叩きながら税理士が言っていました。金曜の午後、パートのおばちゃんたちがいなくなった後の事務所で税の処理について一通りアドバイスを受けた私は、税理士がどうやって稼いでいるのかを聞いてみました。税理士の取り分は、依頼者の収入によって決まっているとのこと。それは法律で定められているので、自分で多くもらったり少なくしたりという操作はできないのだそうです。
彼は、税理士の事務所を開く前は税務署で働いていたといいます。どうして税理士になろうと思ったのか?と尋ねると、知り過ぎるぐらい税務署の観点が分かっているから、という答え。もしかしてそれは内部の情報を知っているのでなにか税務署の目を盗むような脱税のアドバイスをするため?という疑問をぶつけると、そうではなく、税務署へ提出する資料が正しければ正しいほど、細かければ細かいほど税務署の仕事を軽減することができ、さらに税務署に対して税理士事務所の信頼を得られるからというのが理由でした。
依頼者は、他の税理士事務所や会計事務所にはない細々とした資料(時にはそれは領収書のみではなくお店のサインがあったり、接待費であればお酒が入ってないかチェックしたりするという細かいもの)の提出を求められ、中にはそのハードルの高さに参ってしまう人もいるそうですが、このハードルを超えた者は逆に税務署からの干渉もないので、煩わされることなく静かに自分の事業に集中できるというわけ。厳しい要求はあるが正確性が売りだというこの税理士事務所。税理士自身は事務所近くのアパートに暮らし、たまに近所のアジア軽食店にいくのが楽しみなんだとか。なんだか庶民的なエピソードを聞いて、緊張して税理士のところに行ったのが肩すかしをされて帰って来たという思い出があります。彼は豪華な生活をひけらかすとか、社会的地位に満足感を得るということではなく、単に純粋に仕事に忠実ということなのかなと理解した思い出があります。
そんな「仕事に忠実」ということでいえば、政治家ではまずこの人を思い浮かべます。
ヴォルフガング・ショイブレ氏。現在彼は財務省大臣を務めており、なんといっても頭脳明晰、これからのユーロ再建に向けてメルケル首相に頼られる存在です。あとでお話しますが、車いすの生活を余儀なくされているショイブレ氏。身体的ハンディを抱えながら政治的活動に邁進する姿に打たれる方は少なくありません。演説がキャッチーで面白いために人気があるというより、彼の政治家としての手腕が国民の注目を集めているというところでしょうか。
彼が車いす生活になったのは1990年からでしたが、その前までは、ショイブレ氏は立ち座りができる普通の人でした。1942年生まれのショイブレ氏の父はやはり州議会の議員で、政治家の家に生まれたといってもよいものでした。フライブルク大学とハンブルク大学で法律と経済を学び、1966年には国家の法律試験に合格しています。また税の監査役ともなりその後、バーデン・ヴルテンブルク州の税管理局で、またフライブルクの税務署の税管理部門の主任として働く経験を持ちました。とにかく若い頃から法律と経済を学問上でも実践上でも修めた人です。
政治に関心を持ち始めたのはアビトゥアと呼ばれる大学入学試験を受ける年で、ドイツキリスト教民主同盟(CDU)の青年部に参加する事からはじまっています。1972年には連邦議会にCDUより初当選し、1984年には第二次ヘルムト・コール内閣に国務大臣兼首相府長官として入閣を果たしました。この在任時、1987年東ドイツの当時トップであった国家評議会議長、エーリッヒ・ホーネッカーの西ドイツ訪問の準備をすすめる役割も担いました。1989年第三次ヘルムトコール時代には内相に抜擢され、1989年にあった壁の崩壊後を踏まえ、1990年には東ドイツとの統一条約についての西ドイツ側の交渉人代表ともなりました。この条約は1990年8月に調印されることとなり、ドイツ外務省ではショイブレ氏のサインがされた条約書が閲覧できるようになっています。
1990年12月、選挙活動中に精神病の男に3発の銃撃を受けたうちの1発が脊髄に当たり、脊髄損傷、下半身麻痺に。以降、車いす生活となりました。1991年には首都をベルリンに遷都するかどうかという議論が連邦議会で行われましたが、ショイブレ氏の説得力あるスピーチが首都をボンからベルリンに移すことの決め手になったのです。
ボンにある連邦議会で、車いすに乗った彼はこう訴えます。「ドイツの統一と自由、デモクラシー、そして法治国家のシンボルはいずれの都市でもなく常にベルリンでありました。~中略~ドイツの統一は、ヨーロッパの統一の始まりでもあります。~中略~ドイツはヨーロッパの分断を超えようとし、我々ドイツ人は統一を勝ち取った。首都をベルリンに移すと決めることは、ヨーロッパの分断を超えようとする決定でもあります。皆様、本日私が申し上げたいのは、ボンにするかベルリンにするかということではなく、我々の未来、まず我々の内部自身に心の統一を見つけなければならないドイツの未来についてです。ヨーロッパの未来についてです。平和、自由、社会的な平等について考えなければならないという責任をもつのならば、ヨーロッパの統一を現実化させなければなりません。だからこそ私はあなたたちに訴えかけたいのです。私と共に、ベルリンに1票を」
▽動画を見ることができます
http://www.bpb.de/geschichte/deutsche-einheit/20-jahre-hauptstadtbeschluss/39744/rede-wolfgang-schaeuble
ショイブレ氏は1991年から2000年までCDU、 CSU遠方議会議員団長という位置につきました。この政治的位置はCDU党首でコール首相の後継者とみなされる位置でありました。実際、1997年にコール首相は自身の後継者としてショイブレ氏を指名したものの、コール首相は2002年まで党首をつづけることを宣言していました。ところが1998年の選挙でCDUが大敗、SPDに政権をとられることになりコール政権は退陣に追い込まれます。CDUの政権はないもののようやくショイブレ氏が党首に就任するものの、コール時代の武器商人からの献金疑惑が発覚。アンゲラ・メルケル氏にすぐに党首の座を譲というものでした。メルケル氏は2005年に政権をCDUに奪回して党首兼首相になり、ショイブレ氏を内相に、そして2009年より現在は財相に任命しています。
1991年の彼の演説にあったように、ヨーロッパはベルリンの壁の崩壊後、ドイツ統一のみならずヨーロッパ統一を目指してユーロを導入します。しかし2007年ごろからのヨーロッパの経済危機を受け、2009年、ショイブレ氏は「これはベルリンの壁崩壊のときのようなものである」とその歴史的な重要性を比べています。現在は、特にメルケル首相の片腕としてヨーロッパ圏内における経済政策、特に国の借金について解決を見出すべく責任ある任務を果たそうとしています。
献金疑惑とその自白により、彼が完全にクリーンであるというイメージはなくなりました。おそらく、政治家として首相や党首といったトップの座につくということはないでしょう。それにしてもドイツ統一のキーマンでもあり、ベルリン遷都の立役者、またこれからのヨーロッパ経済危機脱却からのリーダーシップをとるようになっていく人物でもあります。変化する、そして可変な現代史の中にいる一人、そんな意識が彼の中にあるのではないでしょうか。もちろんショイブレ氏の考えに意を唱える人もいます。しかし彼の政治家としての頭脳を求めているメルケル政権、そしてヨーロッパがあるのです。
◆その他の「ドイツの政治家」はこちら
≫「ドイツの母」フォン・デア・ライエン氏
≫「ドイツの首相」アンゲラ・メルケル氏
◆このコラムの他の記事を読む
(1)ドイツ版、国民的アイドルは誰ですの?

≫その1
≫その2
≫その3
(2)「借金からの脱出」借金解決請負人-ペーター・ツヴィーガート

≫その1
≫その2
≫その3
(3)ドイツの人気テレビ番組「ほんとうにほんとうの人生」

≫その1
≫その2
≫その3
(4)売れないレストラン再建!独TV番組「レストランテスター」
≫その1
≫その2
≫その3
(5)深夜のトーク番組「ドミアン」 ハロー、こちらドミアン!

≫その1
≫その2
≫その3
(6)黒髪長身のスーパー教育アドバイザーが家庭訪問。「スーパーナニー」

≫その1
≫その2
≫その3
(7)政治家シリーズ

≫「ドイツの母」フォン・デア・ライエン氏

≫「ドイツの右腕」ヴォルフガング・ショイブレ氏

≫「ドイツの首相」アンゲラ・メルケル氏
◆このコラムの著者、河村恵理さんのお話を、コラム「インタビュー・ノート」にて掲載しています。
河村さんのドイツでのお仕事、現在に至るまでの経緯などが語られています。
・前編 http://interview.eshizuoka.jp/e953874.html
・中編 http://interview.eshizuoka.jp/e956661.html
・後編 http://interview.eshizuoka.jp/e960315.html
Posted by eしずおかコラム at 12:00
2013年06月05日
20.「ドイツの母」 政治家シリーズ1
前回までのお話、スーパーナニー。ドイツで放送されたこの番組の元ネタは、実はイギリスの番組なのです。イギリスの番組「スーパーナニー」は、自国を飛び出してアメリカの家庭にまで訪問しています。また、フランスでも同様の番組ができているのをみると、ヨーロッパやアメリカといういわゆる先進国では、家族や子育てにおいて同じような課題を抱えているのでは・・・と思います。
さてさて、日本とドイツを比べていておや?と思うことが多々あるのですが、その中でも政治の世界でのおや!は意外と多いです。一つ一つあげていったらキリがないですし、文化背景が違っているので表面に現れたものを取りざたしたとしてもどちらがいいのかというのは判断しづらいと思います。それでも、今回から3回にわたり政治の世界での人物にスポットをあて、このおや!がどのくらいの規模であるのか表現できたらと思います。
ドイツの省庁は14あり、外務省、内務省、財政省、司法省などで構成されています。この14の省の中に、家族・高齢者・婦人・青少年省という省(通称家族省)があります。機関の内容の質は違いますが、外交や経済、そして法と同じように国が成り立つ重要な柱の一つになっているのだと理解ができます。日本の省庁は1府12省。ドイツの家族・高齢者・婦人・青少年省と同じような役割のものを探すと、内閣府の内部部局として男女共同参画局、そして特別機関として少子化対策会議、高齢社会対策会議という組織があり、担当大臣がいます。この比較をみるとお分かりだと思いますが、ドイツでは家庭環境に関する政策が政府の機関として「省」となっているのに、日本ではこれらの機関は「省」という形体にはなっていません。
今のドイツの家族省の大臣は若干35歳の女性大臣、クリスティナ・シュレーダー氏です。
彼女が大臣になったのは32歳の時で、最年少の閣僚でありました。就任当時は結婚していなかったものの、その後同じ党に所属する政治家オーレ・シュレーダーと結婚し、大臣就任中に一児を出産した経歴の持ち主です。ドイツも少子化がすすみ、この家族省の課題の一つは少子化対策でもあったので、大臣自らそれを一つ解決したということにもなると思います。就任中に産休をとり、6週間の産休中は当時の教育科学大臣とその他政治家たちが彼女の代行を勤め、産休後は大臣の職にもどるということに。働いている省が家庭のことを扱っているだけになにかと彼女のプライベートや家庭観が気になるところ。しかし彼女のプライベートは一切公開されず、最近は次期閣僚に残る事なく一代議士でいたいと発表しています。やはり子供を抱えて母親が責任ある仕事につくのは難しいのでしょうか。なんといってもシュレーダー氏は前任のウルズラ・フォン・デア・ライエン氏と比べられることが多く、これも彼女にとっては悩みの一つでありましょう。
フォン・デア・ライエン氏は、2005年から2009年にかけ第一次メルケル内閣でこの家族・高齢者・婦人・青少年省大臣に着任し、現在は社会省の大臣を務めています。
彼女が名を成すようになったのは、2004年のCDUのデュッセルドルフでの党大会で、「私の名前はウルズラ・フォン・デア・ライエンです。ニーダーザクセン州の社会相を勤めております。夫との間に7人の子供がいます。」という言葉でした。彼女の父親はニーダーザクセン州の州首相を勤めたこともある政治家でしたので、州の中では知らない人はいないということであったでしょうけれど、全国にフォン・デア・ライエン氏の存在が知らされたのはこの党大会での自身からの言葉でした。おそらく誰もが言葉を疑ったに違いありません。「子供が7人!?」。それでいて州の社会相まで勤めあげられる彼女の才能、夫の理解、環境、そして家事と仕事の両立はどうなっているのか、そしてなんといってもどうやって7人の子供達をまとめているか、余計ですがまたどうして体型を維持できるか、などさまざまな疑問が浮かんでいます。
夫は医学教授でもあり経営者でもあります。また彼女も医師の博士号を持っています。社会的な地位と才能、そして大家族にみまわれ羨望の眼差しもある中、彼女の存在は敵をつくるのも容易でした。とにかく彼女の存在自体が左系の人にも右系の人にも気に入らないところがあったのです。左の人からは、生まれながらにして良家であるというやっかみと、右の人からは7人の子供の上キャリアもあり、その上さらに幸せそうだという妬みありました。そんな嫌悪の念にもフォン・デア・ライエン氏は余裕をもって答えます。「そうですね古い格言にありましたね。同情は味わわされる。嫉妬は獲得する、と。」
彼女自身が最初の子供を出産したのは29歳の時でした。彼女はそれこそ医者として新人でこれから仕事が出来るという時だったので、妊娠したときは仕事ができなくなることを残念に思ったそうです。それに子供がいて仕事をつづけると出られない会議があったり、同僚に気を使ったりとするので仕事をやめることに。一番の思いは、子供を自分たちが作ったのだからその子供達をどうして仕事のためにだれかに預けなければならないのだろう、ということだったそうです。5人の子供(その内1組の双子あり)を6年のうちに生み、子供を問題としてではなくある現象としてとらえて望んだそうです。そして、子供がいるからなにもできないのではなく、子供があることでなにかよい経験をもつ人物だととらえられて仕事があると思ったそうです。
その後、ゆっくりとではありますが、図書館などに通い専門性のある医学について勉強し、インターネットで講師ができる職につき、まさに子供を膝にかかえながら仕事をしていたといいます。後には父親と同じような政治家になる道に進む事になるのですが、メルケル政権での家族・高齢者・婦人・青少年省、大臣という地位は彼女が7人の子持ちだったから獲得したものだったでしょう。
フォン・デア・ライエン氏は家庭省の在任中に、児童ポルノのインターネット規制の強化について強く訴えたり、保育所の増大を訴えたりしました。また制度改正としては1986年からあった養育補助金制度を廃止して2007年より新しく、子供手当を導入しました。これは親に政府から子供が生まれてから12ヶ月支給される援助金で親の収入によって額が違うものです。彼女は時に「ドイツの母」と言われるくらい、プライベートでもそして公的にも「母」として頂点にぼりつめていった人です。
◆その他の「ドイツの政治家」はこちら
≫「ドイツの右腕」ヴォルフガング・ショイブレ氏
≫「ドイツの首相」アンゲラ・メルケル氏
◆このコラムの他の記事を読む
(1)ドイツ版、国民的アイドルは誰ですの?

≫その1
≫その2
≫その3
(2)「借金からの脱出」借金解決請負人-ペーター・ツヴィーガート

≫その1
≫その2
≫その3
(3)ドイツの人気テレビ番組「ほんとうにほんとうの人生」

≫その1
≫その2
≫その3
(4)売れないレストラン再建!独TV番組「レストランテスター」
≫その1
≫その2
≫その3
(5)深夜のトーク番組「ドミアン」 ハロー、こちらドミアン!

≫その1
≫その2
≫その3
(6)黒髪長身のスーパー教育アドバイザーが家庭訪問。「スーパーナニー」

≫その1
≫その2
≫その3
(7)政治家シリーズ

≫「ドイツの母」フォン・デア・ライエン氏

≫「ドイツの右腕」ヴォルフガング・ショイブレ氏

≫「ドイツの首相」アンゲラ・メルケル氏
◆このコラムの著者、河村恵理さんのお話を、コラム「インタビュー・ノート」にて掲載しています。
河村さんのドイツでのお仕事、現在に至るまでの経緯などが語られています。
・前編 http://interview.eshizuoka.jp/e953874.html
・中編 http://interview.eshizuoka.jp/e956661.html
・後編 http://interview.eshizuoka.jp/e960315.html
さてさて、日本とドイツを比べていておや?と思うことが多々あるのですが、その中でも政治の世界でのおや!は意外と多いです。一つ一つあげていったらキリがないですし、文化背景が違っているので表面に現れたものを取りざたしたとしてもどちらがいいのかというのは判断しづらいと思います。それでも、今回から3回にわたり政治の世界での人物にスポットをあて、このおや!がどのくらいの規模であるのか表現できたらと思います。
ドイツの省庁は14あり、外務省、内務省、財政省、司法省などで構成されています。この14の省の中に、家族・高齢者・婦人・青少年省という省(通称家族省)があります。機関の内容の質は違いますが、外交や経済、そして法と同じように国が成り立つ重要な柱の一つになっているのだと理解ができます。日本の省庁は1府12省。ドイツの家族・高齢者・婦人・青少年省と同じような役割のものを探すと、内閣府の内部部局として男女共同参画局、そして特別機関として少子化対策会議、高齢社会対策会議という組織があり、担当大臣がいます。この比較をみるとお分かりだと思いますが、ドイツでは家庭環境に関する政策が政府の機関として「省」となっているのに、日本ではこれらの機関は「省」という形体にはなっていません。
今のドイツの家族省の大臣は若干35歳の女性大臣、クリスティナ・シュレーダー氏です。
彼女が大臣になったのは32歳の時で、最年少の閣僚でありました。就任当時は結婚していなかったものの、その後同じ党に所属する政治家オーレ・シュレーダーと結婚し、大臣就任中に一児を出産した経歴の持ち主です。ドイツも少子化がすすみ、この家族省の課題の一つは少子化対策でもあったので、大臣自らそれを一つ解決したということにもなると思います。就任中に産休をとり、6週間の産休中は当時の教育科学大臣とその他政治家たちが彼女の代行を勤め、産休後は大臣の職にもどるということに。働いている省が家庭のことを扱っているだけになにかと彼女のプライベートや家庭観が気になるところ。しかし彼女のプライベートは一切公開されず、最近は次期閣僚に残る事なく一代議士でいたいと発表しています。やはり子供を抱えて母親が責任ある仕事につくのは難しいのでしょうか。なんといってもシュレーダー氏は前任のウルズラ・フォン・デア・ライエン氏と比べられることが多く、これも彼女にとっては悩みの一つでありましょう。
フォン・デア・ライエン氏は、2005年から2009年にかけ第一次メルケル内閣でこの家族・高齢者・婦人・青少年省大臣に着任し、現在は社会省の大臣を務めています。
彼女が名を成すようになったのは、2004年のCDUのデュッセルドルフでの党大会で、「私の名前はウルズラ・フォン・デア・ライエンです。ニーダーザクセン州の社会相を勤めております。夫との間に7人の子供がいます。」という言葉でした。彼女の父親はニーダーザクセン州の州首相を勤めたこともある政治家でしたので、州の中では知らない人はいないということであったでしょうけれど、全国にフォン・デア・ライエン氏の存在が知らされたのはこの党大会での自身からの言葉でした。おそらく誰もが言葉を疑ったに違いありません。「子供が7人!?」。それでいて州の社会相まで勤めあげられる彼女の才能、夫の理解、環境、そして家事と仕事の両立はどうなっているのか、そしてなんといってもどうやって7人の子供達をまとめているか、余計ですがまたどうして体型を維持できるか、などさまざまな疑問が浮かんでいます。
夫は医学教授でもあり経営者でもあります。また彼女も医師の博士号を持っています。社会的な地位と才能、そして大家族にみまわれ羨望の眼差しもある中、彼女の存在は敵をつくるのも容易でした。とにかく彼女の存在自体が左系の人にも右系の人にも気に入らないところがあったのです。左の人からは、生まれながらにして良家であるというやっかみと、右の人からは7人の子供の上キャリアもあり、その上さらに幸せそうだという妬みありました。そんな嫌悪の念にもフォン・デア・ライエン氏は余裕をもって答えます。「そうですね古い格言にありましたね。同情は味わわされる。嫉妬は獲得する、と。」
彼女自身が最初の子供を出産したのは29歳の時でした。彼女はそれこそ医者として新人でこれから仕事が出来るという時だったので、妊娠したときは仕事ができなくなることを残念に思ったそうです。それに子供がいて仕事をつづけると出られない会議があったり、同僚に気を使ったりとするので仕事をやめることに。一番の思いは、子供を自分たちが作ったのだからその子供達をどうして仕事のためにだれかに預けなければならないのだろう、ということだったそうです。5人の子供(その内1組の双子あり)を6年のうちに生み、子供を問題としてではなくある現象としてとらえて望んだそうです。そして、子供がいるからなにもできないのではなく、子供があることでなにかよい経験をもつ人物だととらえられて仕事があると思ったそうです。
その後、ゆっくりとではありますが、図書館などに通い専門性のある医学について勉強し、インターネットで講師ができる職につき、まさに子供を膝にかかえながら仕事をしていたといいます。後には父親と同じような政治家になる道に進む事になるのですが、メルケル政権での家族・高齢者・婦人・青少年省、大臣という地位は彼女が7人の子持ちだったから獲得したものだったでしょう。
フォン・デア・ライエン氏は家庭省の在任中に、児童ポルノのインターネット規制の強化について強く訴えたり、保育所の増大を訴えたりしました。また制度改正としては1986年からあった養育補助金制度を廃止して2007年より新しく、子供手当を導入しました。これは親に政府から子供が生まれてから12ヶ月支給される援助金で親の収入によって額が違うものです。彼女は時に「ドイツの母」と言われるくらい、プライベートでもそして公的にも「母」として頂点にぼりつめていった人です。
◆その他の「ドイツの政治家」はこちら
≫「ドイツの右腕」ヴォルフガング・ショイブレ氏
≫「ドイツの首相」アンゲラ・メルケル氏
◆このコラムの他の記事を読む
(1)ドイツ版、国民的アイドルは誰ですの?

≫その1
≫その2
≫その3
(2)「借金からの脱出」借金解決請負人-ペーター・ツヴィーガート

≫その1
≫その2
≫その3
(3)ドイツの人気テレビ番組「ほんとうにほんとうの人生」

≫その1
≫その2
≫その3
(4)売れないレストラン再建!独TV番組「レストランテスター」
≫その1
≫その2
≫その3
(5)深夜のトーク番組「ドミアン」 ハロー、こちらドミアン!

≫その1
≫その2
≫その3
(6)黒髪長身のスーパー教育アドバイザーが家庭訪問。「スーパーナニー」

≫その1
≫その2
≫その3
(7)政治家シリーズ

≫「ドイツの母」フォン・デア・ライエン氏

≫「ドイツの右腕」ヴォルフガング・ショイブレ氏

≫「ドイツの首相」アンゲラ・メルケル氏
◆このコラムの著者、河村恵理さんのお話を、コラム「インタビュー・ノート」にて掲載しています。
河村さんのドイツでのお仕事、現在に至るまでの経緯などが語られています。
・前編 http://interview.eshizuoka.jp/e953874.html
・中編 http://interview.eshizuoka.jp/e956661.html
・後編 http://interview.eshizuoka.jp/e960315.html
Posted by eしずおかコラム at 12:00