2013年06月19日
21.「ドイツの右腕」 政治家シリーズ2
ある方の依頼で、一緒にベルリンの税理士事務所を訪れた時のこと。さぞかし立派な事務所なんだろうと思いでかけて行くと、通されたのは住宅街にあるなんともこじんまりとした70平米ぐらいのお部屋でした。1階と、その1階を少し展望できるような中2階があり、1階には大きな机が6つぐらいおいてありました。
「ここは、送られて来る領収書をパートのおばちゃんたちが一生懸命データとして打ち込むところなんだよ」と、文房具が置かれ書類が綺麗に整頓された机をトントンと叩きながら税理士が言っていました。金曜の午後、パートのおばちゃんたちがいなくなった後の事務所で税の処理について一通りアドバイスを受けた私は、税理士がどうやって稼いでいるのかを聞いてみました。税理士の取り分は、依頼者の収入によって決まっているとのこと。それは法律で定められているので、自分で多くもらったり少なくしたりという操作はできないのだそうです。
彼は、税理士の事務所を開く前は税務署で働いていたといいます。どうして税理士になろうと思ったのか?と尋ねると、知り過ぎるぐらい税務署の観点が分かっているから、という答え。もしかしてそれは内部の情報を知っているのでなにか税務署の目を盗むような脱税のアドバイスをするため?という疑問をぶつけると、そうではなく、税務署へ提出する資料が正しければ正しいほど、細かければ細かいほど税務署の仕事を軽減することができ、さらに税務署に対して税理士事務所の信頼を得られるからというのが理由でした。
依頼者は、他の税理士事務所や会計事務所にはない細々とした資料(時にはそれは領収書のみではなくお店のサインがあったり、接待費であればお酒が入ってないかチェックしたりするという細かいもの)の提出を求められ、中にはそのハードルの高さに参ってしまう人もいるそうですが、このハードルを超えた者は逆に税務署からの干渉もないので、煩わされることなく静かに自分の事業に集中できるというわけ。厳しい要求はあるが正確性が売りだというこの税理士事務所。税理士自身は事務所近くのアパートに暮らし、たまに近所のアジア軽食店にいくのが楽しみなんだとか。なんだか庶民的なエピソードを聞いて、緊張して税理士のところに行ったのが肩すかしをされて帰って来たという思い出があります。彼は豪華な生活をひけらかすとか、社会的地位に満足感を得るということではなく、単に純粋に仕事に忠実ということなのかなと理解した思い出があります。
そんな「仕事に忠実」ということでいえば、政治家ではまずこの人を思い浮かべます。
ヴォルフガング・ショイブレ氏。現在彼は財務省大臣を務めており、なんといっても頭脳明晰、これからのユーロ再建に向けてメルケル首相に頼られる存在です。あとでお話しますが、車いすの生活を余儀なくされているショイブレ氏。身体的ハンディを抱えながら政治的活動に邁進する姿に打たれる方は少なくありません。演説がキャッチーで面白いために人気があるというより、彼の政治家としての手腕が国民の注目を集めているというところでしょうか。
彼が車いす生活になったのは1990年からでしたが、その前までは、ショイブレ氏は立ち座りができる普通の人でした。1942年生まれのショイブレ氏の父はやはり州議会の議員で、政治家の家に生まれたといってもよいものでした。フライブルク大学とハンブルク大学で法律と経済を学び、1966年には国家の法律試験に合格しています。また税の監査役ともなりその後、バーデン・ヴルテンブルク州の税管理局で、またフライブルクの税務署の税管理部門の主任として働く経験を持ちました。とにかく若い頃から法律と経済を学問上でも実践上でも修めた人です。
政治に関心を持ち始めたのはアビトゥアと呼ばれる大学入学試験を受ける年で、ドイツキリスト教民主同盟(CDU)の青年部に参加する事からはじまっています。1972年には連邦議会にCDUより初当選し、1984年には第二次ヘルムト・コール内閣に国務大臣兼首相府長官として入閣を果たしました。この在任時、1987年東ドイツの当時トップであった国家評議会議長、エーリッヒ・ホーネッカーの西ドイツ訪問の準備をすすめる役割も担いました。1989年第三次ヘルムトコール時代には内相に抜擢され、1989年にあった壁の崩壊後を踏まえ、1990年には東ドイツとの統一条約についての西ドイツ側の交渉人代表ともなりました。この条約は1990年8月に調印されることとなり、ドイツ外務省ではショイブレ氏のサインがされた条約書が閲覧できるようになっています。
1990年12月、選挙活動中に精神病の男に3発の銃撃を受けたうちの1発が脊髄に当たり、脊髄損傷、下半身麻痺に。以降、車いす生活となりました。1991年には首都をベルリンに遷都するかどうかという議論が連邦議会で行われましたが、ショイブレ氏の説得力あるスピーチが首都をボンからベルリンに移すことの決め手になったのです。
ボンにある連邦議会で、車いすに乗った彼はこう訴えます。「ドイツの統一と自由、デモクラシー、そして法治国家のシンボルはいずれの都市でもなく常にベルリンでありました。~中略~ドイツの統一は、ヨーロッパの統一の始まりでもあります。~中略~ドイツはヨーロッパの分断を超えようとし、我々ドイツ人は統一を勝ち取った。首都をベルリンに移すと決めることは、ヨーロッパの分断を超えようとする決定でもあります。皆様、本日私が申し上げたいのは、ボンにするかベルリンにするかということではなく、我々の未来、まず我々の内部自身に心の統一を見つけなければならないドイツの未来についてです。ヨーロッパの未来についてです。平和、自由、社会的な平等について考えなければならないという責任をもつのならば、ヨーロッパの統一を現実化させなければなりません。だからこそ私はあなたたちに訴えかけたいのです。私と共に、ベルリンに1票を」
▽動画を見ることができます
http://www.bpb.de/geschichte/deutsche-einheit/20-jahre-hauptstadtbeschluss/39744/rede-wolfgang-schaeuble
ショイブレ氏は1991年から2000年までCDU、 CSU遠方議会議員団長という位置につきました。この政治的位置はCDU党首でコール首相の後継者とみなされる位置でありました。実際、1997年にコール首相は自身の後継者としてショイブレ氏を指名したものの、コール首相は2002年まで党首をつづけることを宣言していました。ところが1998年の選挙でCDUが大敗、SPDに政権をとられることになりコール政権は退陣に追い込まれます。CDUの政権はないもののようやくショイブレ氏が党首に就任するものの、コール時代の武器商人からの献金疑惑が発覚。アンゲラ・メルケル氏にすぐに党首の座を譲というものでした。メルケル氏は2005年に政権をCDUに奪回して党首兼首相になり、ショイブレ氏を内相に、そして2009年より現在は財相に任命しています。
1991年の彼の演説にあったように、ヨーロッパはベルリンの壁の崩壊後、ドイツ統一のみならずヨーロッパ統一を目指してユーロを導入します。しかし2007年ごろからのヨーロッパの経済危機を受け、2009年、ショイブレ氏は「これはベルリンの壁崩壊のときのようなものである」とその歴史的な重要性を比べています。現在は、特にメルケル首相の片腕としてヨーロッパ圏内における経済政策、特に国の借金について解決を見出すべく責任ある任務を果たそうとしています。
献金疑惑とその自白により、彼が完全にクリーンであるというイメージはなくなりました。おそらく、政治家として首相や党首といったトップの座につくということはないでしょう。それにしてもドイツ統一のキーマンでもあり、ベルリン遷都の立役者、またこれからのヨーロッパ経済危機脱却からのリーダーシップをとるようになっていく人物でもあります。変化する、そして可変な現代史の中にいる一人、そんな意識が彼の中にあるのではないでしょうか。もちろんショイブレ氏の考えに意を唱える人もいます。しかし彼の政治家としての頭脳を求めているメルケル政権、そしてヨーロッパがあるのです。
◆その他の「ドイツの政治家」はこちら
≫「ドイツの母」フォン・デア・ライエン氏
≫「ドイツの首相」アンゲラ・メルケル氏
◆このコラムの他の記事を読む
(1)ドイツ版、国民的アイドルは誰ですの?

≫その1
≫その2
≫その3
(2)「借金からの脱出」借金解決請負人-ペーター・ツヴィーガート

≫その1
≫その2
≫その3
(3)ドイツの人気テレビ番組「ほんとうにほんとうの人生」

≫その1
≫その2
≫その3
(4)売れないレストラン再建!独TV番組「レストランテスター」
≫その1
≫その2
≫その3
(5)深夜のトーク番組「ドミアン」 ハロー、こちらドミアン!

≫その1
≫その2
≫その3
(6)黒髪長身のスーパー教育アドバイザーが家庭訪問。「スーパーナニー」

≫その1
≫その2
≫その3
(7)政治家シリーズ

≫「ドイツの母」フォン・デア・ライエン氏

≫「ドイツの右腕」ヴォルフガング・ショイブレ氏

≫「ドイツの首相」アンゲラ・メルケル氏
◆このコラムの著者、河村恵理さんのお話を、コラム「インタビュー・ノート」にて掲載しています。
河村さんのドイツでのお仕事、現在に至るまでの経緯などが語られています。
・前編 http://interview.eshizuoka.jp/e953874.html
・中編 http://interview.eshizuoka.jp/e956661.html
・後編 http://interview.eshizuoka.jp/e960315.html
「ここは、送られて来る領収書をパートのおばちゃんたちが一生懸命データとして打ち込むところなんだよ」と、文房具が置かれ書類が綺麗に整頓された机をトントンと叩きながら税理士が言っていました。金曜の午後、パートのおばちゃんたちがいなくなった後の事務所で税の処理について一通りアドバイスを受けた私は、税理士がどうやって稼いでいるのかを聞いてみました。税理士の取り分は、依頼者の収入によって決まっているとのこと。それは法律で定められているので、自分で多くもらったり少なくしたりという操作はできないのだそうです。
彼は、税理士の事務所を開く前は税務署で働いていたといいます。どうして税理士になろうと思ったのか?と尋ねると、知り過ぎるぐらい税務署の観点が分かっているから、という答え。もしかしてそれは内部の情報を知っているのでなにか税務署の目を盗むような脱税のアドバイスをするため?という疑問をぶつけると、そうではなく、税務署へ提出する資料が正しければ正しいほど、細かければ細かいほど税務署の仕事を軽減することができ、さらに税務署に対して税理士事務所の信頼を得られるからというのが理由でした。
依頼者は、他の税理士事務所や会計事務所にはない細々とした資料(時にはそれは領収書のみではなくお店のサインがあったり、接待費であればお酒が入ってないかチェックしたりするという細かいもの)の提出を求められ、中にはそのハードルの高さに参ってしまう人もいるそうですが、このハードルを超えた者は逆に税務署からの干渉もないので、煩わされることなく静かに自分の事業に集中できるというわけ。厳しい要求はあるが正確性が売りだというこの税理士事務所。税理士自身は事務所近くのアパートに暮らし、たまに近所のアジア軽食店にいくのが楽しみなんだとか。なんだか庶民的なエピソードを聞いて、緊張して税理士のところに行ったのが肩すかしをされて帰って来たという思い出があります。彼は豪華な生活をひけらかすとか、社会的地位に満足感を得るということではなく、単に純粋に仕事に忠実ということなのかなと理解した思い出があります。
そんな「仕事に忠実」ということでいえば、政治家ではまずこの人を思い浮かべます。
ヴォルフガング・ショイブレ氏。現在彼は財務省大臣を務めており、なんといっても頭脳明晰、これからのユーロ再建に向けてメルケル首相に頼られる存在です。あとでお話しますが、車いすの生活を余儀なくされているショイブレ氏。身体的ハンディを抱えながら政治的活動に邁進する姿に打たれる方は少なくありません。演説がキャッチーで面白いために人気があるというより、彼の政治家としての手腕が国民の注目を集めているというところでしょうか。
彼が車いす生活になったのは1990年からでしたが、その前までは、ショイブレ氏は立ち座りができる普通の人でした。1942年生まれのショイブレ氏の父はやはり州議会の議員で、政治家の家に生まれたといってもよいものでした。フライブルク大学とハンブルク大学で法律と経済を学び、1966年には国家の法律試験に合格しています。また税の監査役ともなりその後、バーデン・ヴルテンブルク州の税管理局で、またフライブルクの税務署の税管理部門の主任として働く経験を持ちました。とにかく若い頃から法律と経済を学問上でも実践上でも修めた人です。
政治に関心を持ち始めたのはアビトゥアと呼ばれる大学入学試験を受ける年で、ドイツキリスト教民主同盟(CDU)の青年部に参加する事からはじまっています。1972年には連邦議会にCDUより初当選し、1984年には第二次ヘルムト・コール内閣に国務大臣兼首相府長官として入閣を果たしました。この在任時、1987年東ドイツの当時トップであった国家評議会議長、エーリッヒ・ホーネッカーの西ドイツ訪問の準備をすすめる役割も担いました。1989年第三次ヘルムトコール時代には内相に抜擢され、1989年にあった壁の崩壊後を踏まえ、1990年には東ドイツとの統一条約についての西ドイツ側の交渉人代表ともなりました。この条約は1990年8月に調印されることとなり、ドイツ外務省ではショイブレ氏のサインがされた条約書が閲覧できるようになっています。
1990年12月、選挙活動中に精神病の男に3発の銃撃を受けたうちの1発が脊髄に当たり、脊髄損傷、下半身麻痺に。以降、車いす生活となりました。1991年には首都をベルリンに遷都するかどうかという議論が連邦議会で行われましたが、ショイブレ氏の説得力あるスピーチが首都をボンからベルリンに移すことの決め手になったのです。
ボンにある連邦議会で、車いすに乗った彼はこう訴えます。「ドイツの統一と自由、デモクラシー、そして法治国家のシンボルはいずれの都市でもなく常にベルリンでありました。~中略~ドイツの統一は、ヨーロッパの統一の始まりでもあります。~中略~ドイツはヨーロッパの分断を超えようとし、我々ドイツ人は統一を勝ち取った。首都をベルリンに移すと決めることは、ヨーロッパの分断を超えようとする決定でもあります。皆様、本日私が申し上げたいのは、ボンにするかベルリンにするかということではなく、我々の未来、まず我々の内部自身に心の統一を見つけなければならないドイツの未来についてです。ヨーロッパの未来についてです。平和、自由、社会的な平等について考えなければならないという責任をもつのならば、ヨーロッパの統一を現実化させなければなりません。だからこそ私はあなたたちに訴えかけたいのです。私と共に、ベルリンに1票を」
▽動画を見ることができます
http://www.bpb.de/geschichte/deutsche-einheit/20-jahre-hauptstadtbeschluss/39744/rede-wolfgang-schaeuble
ショイブレ氏は1991年から2000年までCDU、 CSU遠方議会議員団長という位置につきました。この政治的位置はCDU党首でコール首相の後継者とみなされる位置でありました。実際、1997年にコール首相は自身の後継者としてショイブレ氏を指名したものの、コール首相は2002年まで党首をつづけることを宣言していました。ところが1998年の選挙でCDUが大敗、SPDに政権をとられることになりコール政権は退陣に追い込まれます。CDUの政権はないもののようやくショイブレ氏が党首に就任するものの、コール時代の武器商人からの献金疑惑が発覚。アンゲラ・メルケル氏にすぐに党首の座を譲というものでした。メルケル氏は2005年に政権をCDUに奪回して党首兼首相になり、ショイブレ氏を内相に、そして2009年より現在は財相に任命しています。
1991年の彼の演説にあったように、ヨーロッパはベルリンの壁の崩壊後、ドイツ統一のみならずヨーロッパ統一を目指してユーロを導入します。しかし2007年ごろからのヨーロッパの経済危機を受け、2009年、ショイブレ氏は「これはベルリンの壁崩壊のときのようなものである」とその歴史的な重要性を比べています。現在は、特にメルケル首相の片腕としてヨーロッパ圏内における経済政策、特に国の借金について解決を見出すべく責任ある任務を果たそうとしています。
献金疑惑とその自白により、彼が完全にクリーンであるというイメージはなくなりました。おそらく、政治家として首相や党首といったトップの座につくということはないでしょう。それにしてもドイツ統一のキーマンでもあり、ベルリン遷都の立役者、またこれからのヨーロッパ経済危機脱却からのリーダーシップをとるようになっていく人物でもあります。変化する、そして可変な現代史の中にいる一人、そんな意識が彼の中にあるのではないでしょうか。もちろんショイブレ氏の考えに意を唱える人もいます。しかし彼の政治家としての頭脳を求めているメルケル政権、そしてヨーロッパがあるのです。
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≫「ドイツの首相」アンゲラ・メルケル氏
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(2)「借金からの脱出」借金解決請負人-ペーター・ツヴィーガート

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(4)売れないレストラン再建!独TV番組「レストランテスター」
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(5)深夜のトーク番組「ドミアン」 ハロー、こちらドミアン!

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≫その2
≫その3
(6)黒髪長身のスーパー教育アドバイザーが家庭訪問。「スーパーナニー」

≫その1
≫その2
≫その3
(7)政治家シリーズ

≫「ドイツの母」フォン・デア・ライエン氏

≫「ドイツの右腕」ヴォルフガング・ショイブレ氏

≫「ドイツの首相」アンゲラ・メルケル氏
◆このコラムの著者、河村恵理さんのお話を、コラム「インタビュー・ノート」にて掲載しています。
河村さんのドイツでのお仕事、現在に至るまでの経緯などが語られています。
・前編 http://interview.eshizuoka.jp/e953874.html
・中編 http://interview.eshizuoka.jp/e956661.html
・後編 http://interview.eshizuoka.jp/e960315.html
Posted by eしずおかコラム at 12:00